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紹 介:齋藤充功の 「 昭和史發掘 」 二冊
齋藤充功 『 幻の特務機關 「 ヤマ 」 』
( 新潮新書、2003.7.20/2006.7.5 4版 ) 680円+税
齋藤充功 『 開戰通告はなぜ遲れたか 』
( 新潮新書、2004.7.20 ) 680円+税
齋藤さんは、後者の 「 あとがき 」 で、第一作 『 謀略戰 陸軍登戸研究所 』 ( 学研M文庫 ) と合せて 「 昭和史發掘 」 の三部作、と言つてゐます。
上記二冊を貫く 「 鍵となる人物 」 が、1941年12月 7日、大東亞戰爭開戰當日に ワシントンで葬儀が行はれた陸軍主計大佐、新庄健吉です。
この人物の謎を説き明かす形で、帝國陸軍の秘密機關
「 陸軍登戸研究所 」
「 陸軍中野學校 」
「 ヤマ機關 」
の三位一體の活動が解明されます。
これら三機關は、敗戰と共に證據が隱滅されたので、その活動どころか存在さへ知る人は稀です。その僅かな痕跡を辿り、活動の一端を證據づけたのが上記二冊なのです。
實に興味津々、讀み始めたら一氣に最後まで讀み進んでしまひます。
帝國陸軍が本格的スパイ機關を創設するのは、なんと支那事變が契機です ( 上記一冊目の第二章 ) 。
遲すぎる! と言ひたいところですが、戰後はインテリジェンスについてなーんもしてゐないので、我々に帝國陸軍の手遲れを批判する資格はありません。
著者によると、スパイ活動 ( インテリジェンス ) に三局面あり。
──諜報・謀略・防諜。
そのための機材や技術を研究したのが 「 陸軍登戸研究所 」
スパイ要員を養成したのが 「 陸軍中野學校 」
兩者と連携して防諜活動を展開したのが 「 ヤマ機關 」
「 ヤマ機關 」 が擧げた最大の成果が、ラムゼイ機關 ( ゾルゲの機關 ) の摘發です ( 一冊目の第四章 ) 。
このとき、決定的役割を果したのが、登戸研究所第一科二班の高野泰秋少佐が開發した 「 諜者用無線機 」 ( 短波用通信機 ) でした。
「 この機材は、當時、陸軍が使ってゐた通常の軍用無線機とは比較にならぬほど精度が優れたものだった 」 ( 一冊目 142頁 ) さうです。
その優秀さは、朝鮮戰爭當時、GHQ の CIC ( 對敵防諜部隊 ) が、痕跡を消してゐた高野をわざわざ尋ねて來て詳しく聽取調査をしたほど、優れたものでした。
高野は インタヴューした著者に、 「 北朝鮮の通信傍受に活用したかつたのでせう 」 と話してゐます。
戰爭末期、和平活動に動いた吉田茂らを逮捕したのも 「 ヤマ機關 」 です。
( これについては、機関員東輝次が書いた 『 私は吉田茂のスパイだつた 』 光人社, があります )
さて、二冊目の 『 開戰通告はなぜ遲れたか 』 です。
一冊目では、 「 ヤマ機關 」 の存在を知らせた人物、くらゐにしか扱はれなかつた陸軍主計大佐、新庄健吉が、主人公扱ひで登場します。
京都府の農村 ( 今は綾部市 ) に生れ育つ。真面目で几帳面な性格。陸軍の經理畑を歩み、陸軍經理學校高等科 ( 兵科の陸大に相當 ) で恩賜の銀時計を貰つてゐます。
その後、陸軍派遣學生として東京帝大經濟學部商業科でも學んでゐます。
そしてソ聯を含め、歐洲各國に海外派遣されてゐますから、エリート將校であつたことは間違ひない。
昭和14年 5月號の 『 現代 』 ( 大日本雄辯會講談社刊行 ) に 「 ロシヤを語る座談會 」 といふ記事が掲載されてをり、そこで新庄はこんな發言をしてゐます。
昔の戰爭は、交戰國の軍隊同士の戰ひであつたが、今の戰爭は國力の充實で勝負がつく。
綜合國力の充實が、戰爭の第一段階なのだと ( 72-73頁 ) 。
これぞ眞の 「 總力戰 」 の發想です。
この新庄健吉が米國へ派遣され、昭和16年 3月、横濱港を出港する 「 龍田丸 」 に乘船します。
任務は 「 米國の國力調査 」
エンパイア・ステートビルの七階にあつた三井物産ニューヨーク支店に個室を用意して貰つた新庄は、徹頭徹尾、公開情報から米國の生産能力を推計します。
IBM のホレリス計算機を使つて 7月末に纏めた新庄の 「 第一次報告書 」 の主な數値は以下の通り ( 119-120頁 ) 。
數字は、米國の生産量と、日本の生産量の倍數。
鐵 鋼 生産量 | 9500萬トン | 24倍 |
石 油 精製量 | 1億1000萬バーレル | 無限倍 |
石 炭 産出量 | 5億トン | 12倍 |
發 電 量 | 1800萬kw | 4.5倍 |
アルミ生産量 | 85萬トン | 8倍 |
航空機生産機數 | 2萬機 | 8倍 |
自動車生産台數 | 620萬台 | 50倍 |
船 舶 保有量 | 1000萬トン | 1.5倍 |
工場 勞働者數 | 3400萬人 | 5倍 |
新庄の結論は實に單純明快です。
「 日米の工業力比率は、重工業 1對20/化學工業 1對3 」
「 この差を縮めることが不可能なら、せめてこの比率を維持せねばならない 」
「 そのためには、戰爭の全期間を通じて
米國の損害 100%以上/日本の損害 5%以内
に留めねばならない 」
「 日本側の損害がそれ以上に達すれば、1對20/1對3 の比率が絶望的に擴大する 」
從つて、新庄の最終結論はかうです。
「 日米戰はば、日本は必ず負ける 」
この報告書は、ワシントン の日本大使館に居る岩畔豪雄大佐の許に届けられます。
8 月15日歸朝した岩畔豪雄は、 「 八月中旬から下旬にかけて、近衞總理、陸軍首腦部、海軍首腦部、宮内省首腦部、豊田外相らに直接面會して披露すると同時に、宮中で開催中の大本營連絡會議に出席して 1時間半に亙り委細説明し 」 ますが、 「 文武首腦者の頭を切換へさすに到らなかつたことは返す返すも痛恨の極みであつた 」 と ( 「 岩畔豪雄氏談話速記録 」 、二冊目 128頁 ) 。
新庄の奮闘は虚しかつたのです。
新庄の調査を評價したのは、對米戰爭を控へた日本の首腦ではなく、戰後 「 日本の戰爭經濟力 」 を調べに來た 「 戰略爆撃調査團 」 の米國人でした。
新庄報告を讀んだ彼らは、その正確なことに驚き、日本側に言ひます。
「 これほど正確なデータを彈き出してゐたとは! 」
「 米國では多額の費用をかけて自國の軍事經濟力を分析してゐたが、新庄報告ほど正確ではない 」
そして反問します。
「 かくも立派な報告がありながら、日本はどうして米國に宣戰したのか? 」
日本側は絶句したまま、答へられなかつたやうです。
ところで、二冊目の中心題目は、書名にある通り、 「 開戰通告はなぜ遲れたか 」 です。
結論 ( 1 ) =東條英機首相が 「 奇襲攻撃 」 にするため遲らせた。
結論 ( 2 ) =開戰當日の12月 7日 ( 北米東部時間 ) 、新庄の葬儀が ワシントン の教會で行はれ、それに野村・栗栖兩大使も出席してゐた。
葬儀が豫定より長引き、中途退席し損ねた兩大使の國務省訪問が遲れた。
だが、 「 葬儀出席で遲れた 」 では拙いので、暗號電報の翻譯とタイピングに時間がかかり過ぎたことにこじつけて失態を糊塗した……。
この結論への導き方については、皆さん、直接この新書をお讀みください。
日本人の情報輕視癖と事實隱蔽癖は、戰後、益々酷くなつて居るやうですねえ……
( 平成21年 7月16日 )