二つの寓話-弱者はつけあがる

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伊原註:以下は 『 関西師友 』 平成21年 7月号掲載の 「 世界の話題 」 No235 です。

    若干、増補してあります。





      二つの寓話




     弱者はつけあがる


  佐藤守退役空將が 「 佐藤守のブログ日記 」 4月29日付で、こんな話を書いて居られます。


  私 ( 佐藤守 ) が沖縄勤務時代に、尖閣諸島を巡る主權爭ひは何度となく繰返した。

  平成8年9月26日、チャーター船に香港の活動家18人、報道関係者44人が乘込んで台灣漁船9隻と共に尖閣の領海を侵犯した。


  上陸が無理だと判ると4人が海に飛込んだ。

  「 自國の海で泳いだ 」 と宣傳するつもりが、4人とも溺れ、リーダーが水死。

  これを知るや、海保は直ちに警備活動を止めて救助し、重體の一人を病院に空輸、治療して恢復させた。

  外務省は低姿勢で 「 外交問題 」 にならぬやう配慮し、池田外相は日中外相會談で 「 日本人が建てた燈臺は認可せぬ 」 と約束し、橋本首相は 「 香港・台灣側への經緯説明 」 に走り廻つた。


  このやうな、ひたすら平穏無事を願ふ日本側の對應を見て、香港では 「 對日開戰を訴へる投書 」 が新聞紙面を飾り、 「 あとは武力行使しかない 」 といふ政治家の強硬談話を載せ、 「 今の中國は50年前の貧しく弱い中國ではない 」 と民族主義を煽る記事を書き立てた。


  橋本内閣の事勿れ主義は、弱者をつけあがらせ、10月7日には尖閣への上陸まで許してしまふ。

  守つて居た海保隊員達は、上から 「 手を出すな! 」 と嚴命されていたため、手を後に組んでゐて抵抗せず、不法上陸者に旗竿で毆り倒された、云々


      威張る弱者のへつぴり腰


  次は、 「 決つてゐる中國人女性ライダー 」 に出逢つて話を訊いた日本人のお話です。

    ( 三輪耀山 「 爆笑!中國人vs韓國人 」 2009.2.11 )


  大連出身の彼女が日本に來たのはお金を儲けて大好きなバイクに注ぎ込むため。

  職業は風俗關係。つまり 「 賣春 」 です。

  彼女曰く、

  「 私は日本人に抱かれるのは惡い事とは思はない…… 」

  「 中國人つて、私を含めて惡い人しか居ない。相手が良い人と思つてると命を失ひ、心を壞されるだけ。これが中國の常識 」

  「 でも、日本人は違ふ。みんな涙が出る位良い人ばかり 」

  「 私が甘いものが好きと言つたら、次に來る時にはお菓子を買つて來てくれる 」

  「 日本は安心して眠れる場所ばかりで、明日の不安が全くない 」

     ( 伊原註:彼女はバイク旅行の途中、寝袋で野宿するのです )


  その彼女が日本で出逢つた 「 惡い人 」 が在日韓國人だつた。

  そのお客は、部屋に入るなり怒鳴り散らして文句ばかり。

  終に我慢ならず怒鳴り返したら、相手は忽ち萎縮して借りて來た猫のやうに大人しくなつたと。


      威張る奴に迎合する勿れ


  以上、二つの事例でお判りでせう。


  戰後六十年の日本の對外活動は、基本的な誤りを犯して來たのです。

  平和を求めて來たつもりの日本人の優しい對應が、却つて日本と日本人をなめさせ、日本叩きを誘發してゐたのです。

  北方四島、竹島、尖閣諸島、外國船の日本領海侵犯に對する軟弱な對應……。

  撃たれてから撃ち返す、それまでは手出ししない、出來ない 「 專守防衛 」 等々


  これは正に幣原軟弱外交の再現ではないか!

  幣原喜重郎外相の 「 優しい 」 對應が、シナ政權の侮日排日を産み、軍部の擡頭を促しました。

  弱者に不用意に情をかけると、弱者はつけあがりなめてかかつて 「 もつと多く 」 と要求を殖やすのが常です。


  幣原外交の 「 優しい 」 對中外交の實例を三つだけ書いて置きます。

第一、内亂状態で國の體を成してゐない中華民國に對して、必要以上に 「 内政不干渉主義 」 を貫き、邦人保護の任務を疎かにした。

第二、大正14年/1925.10.26から北京で開催された関税特別會議で列國に先驅けて関税自主權賦與を提議した。

第三、昭和2年/1927.3.24,北伐軍の南京入城に際し、幣原外交の對支内政不干渉方針により無抵抗だった日本領事館は暴行・凌辱・略奪の限りを盡された。武裝解除を受入れさせられた海軍の將校は後、それを恥じてピストル自殺した。


  春秋の筆法を以てすれば、幣原軟弱外交こそ、大日本帝國の滅亡を招いた元兇といふことになります。


  昭和の敗戰は、幣原外交を含む 「 大正の間違ひ 」 が齎しました。

  岡田益吉のいふ 「 大正の間違ひ、昭和を殺す 」 です。

   cf. 岡田益吉 『 昭和のまちがい 』 ( 雪華社、昭和42年11月25日 )

     その改題版が 『 危ない昭和史 ( 上 ) 』 ( 光人社、昭和56年4月7日 ) です。


  大正の輕佻浮薄が昭和に重荷を課し、敗戰の憂き目に遭はせた。

  それなのに、敗戰と米國の占領政策が大正の輕佻浮薄を復活し、戰後デモクラシーとして大正の輕佻浮薄を擴大再生産します。


  大正以來、日本は輕薄病にかかり、本然の良き姿から乖離し始めて現在に到ります。

  日本が良き傳統を復活し、日本らしさを取戻すためには、この輕佻浮薄から脱却せねばなりません。

                                  ( 2009.5.4/7.1 補筆 )