馬英九政權七ヶ月──世代交代と前途不安の台灣──世代交代期にある台灣

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伊原註:以下は、 『 海外事情 』 1月號に載せた論文です。

2008年12月15日執筆ですが、12月下旬の初校で少し追記しました。

それをほぼその儘、ここへ掲載します。少し増補しています。

註を末尾でなく、本文内に振り分けました。

読みやすいように、改行と1行空けを多用してあります。

平成21年2月18日





       馬英九政權七ヶ月
     ──世代交代と前途不安の台灣──




       世代交代期にある台灣


  現在、台湾は世代交代の時期を迎えている。

  新世代を代表するのが2008年5月に大統領に就任した馬英九、

  舊世代を代表するのが、自分を引退させた馬英九を許せない連戦である。

  実は、世代交代と前途不安に惱むのは台湾だけでなく、日本も韓国も米国もその他の諸国も経験中であって、つまりは21世紀初頭に生じている世界的な現象である。

  近く就任するオバマ米国大統領が唱えたCHANGE ( 変化 ) とは、新世代登場のための合言葉であった。

  但し台湾では、新世代を代表する筈の馬英九総統は、蒋家専制支配・在台中国人独裁の再来 ( つまり復古 ) の危惧を引ずっているのではあるが。


  本論に入る前に、台湾の世代差が日本の世代差と並行して似ていることに触れておきたい。


  80代以上:日本語世代。二二八事件と白色テロを経験し、在台中国人支配の恐怖を身体にしみ込ませている。深層心理で反撥しながら、表面は忍従という二重心理である。


  70代〜30代:蒋家独裁時代の大中華主義教育が浸透していて、 「 中国人意識 」 が染込んでいる世代。

  その一部は民主進歩党政権期に台湾意識に目覚めたが、全体として中途半端である。

  つまり、国民党支持に危機感を持たないのである。


  20代:成長期に李登輝の台湾民主化 ( 中国国民党一党独裁体制からの離脱 ) と民進党政権の台湾意識昂揚に出逢い、中国人意識が急速に薄れた世代。

  但し彼らの台湾意識なるものは 「 台湾に生れ育ったから台湾人であって中国人ではない 」 というだけのもので、台湾が危機に瀕した場合に踏み止まって守るだけの 「 一所懸命 」 意識はない。

  中共政権による台湾併呑への危機感もない。

  台湾人というより、コズモポリタンの根無し草に近い。


  因みに、日本の世代差は次の通り。


  80代以上:敗戦による價値觀激変を経験。

  自分で調べ、自分で考えて答えを見つけるほかなかった世代。


  70代〜30代:日教組の反日教育で育った世代。

  自分たちの父祖が 「 悪いことをした 」 と信じて疑わぬ人が多い。

  反体制左翼が教育も論壇も支配していた時期に育ったため、通説に何の疑いも持たぬ人が尠くない。


  20代:通説とは別の見解があることを薄々知り始めた世代。

  但し、米軍の占領政策を日本政府も日本のメディアも後生大事に守って来たので、 「 薄々 」 にしか感じていず、個々ばらばらに寸断され、孤立分散したまま。

  しかし一部に 「 断乎日本の良き伝統を守らねばならない 」 と考える人も居る。


  さて、問題の台湾である。

  2008年3月、台湾総統選で馬英九は若い世代の圧倒的支持を受けて当選した。

  その3月の総統選直後、こんな話を台北で聞いた。


  80代の日本語世代の人の話である。

  「 私の親しい友人がしきりに嘆いて言うのです 」 と言って、以下の話をしてくれた。


  自分 ( 知人の友人 ) は蒋經國の白色テロにより、無実の罪で逮捕・投獄・拷問・徒刑を経験した。この経験を家族に話したことはない。しかし台湾も民主化したので、暫く前、自分の経験を回想録の形で本に書いた。

  息子が米国に留学し、その本を大学図書館で読んだ。

  帰国して言うには──

  「 お父さんは小説を書いていたんだね、米国の図書館で読んだよ 」

  あれは小説じゃない、実体験なんだと言っても、息子は信じない。

  「 あんな酷いことを国民党がやったとは信じられない 」 と言うんです、と。


  台湾の20代の若者とは、国民党の専制支配時代のことを何も知らず、知ろうともしない無邪気な有権者なのである。

  そして、この無邪気さに支えられて馬英九が総統になったという事実をまず承知しておかねばならない。


       中国の影に怯える台湾人


  台湾の知友から電話があった。

  「 このところ、頗る不安です 」 という。

  馬英九政権の下で急速に中国接近が進み、反対勢力への政治的弾圧も強くなって、このままでは近い将来、中国に呑み込まれてしまうのではないかと心配で仕方がない。

  家を売って日本か米国に移住しようと思っても、不景気で家など売れそうもない。

  どうしようもなく、暗い気分で毎日を過ごしていると。


  私から見ると、日本も安泰ではない。

  台湾が中国に併呑されれば、沖縄から本州へと日本列島が中国の勢力範圍に入ってしまう。

  そして西太平洋がシナ海になる。

  その辺は、かねてから、伊藤貫氏や平松茂雄氏が力説する通りである ( 註1 ) 。

( 1 ) 伊藤 貫 『 中国の 「 核 」 が世界を制す 』 ( PHP研究所, 2006.3.8 )

   平松茂雄 『 中国は日本を併合する 』 ( 講談社インターナショナル, 2006.3.15 )

   平松茂雄 『 中国は日本を奪い尽くす 』 ( PHP研究所, 2007.3.9 )

   平松茂雄 『 「 中国の戦争 」 に日本は絶対巻き込まれる 』 ( 徳間書店, 2008.6.30 )


  そして、こういう警告の文章が読書界でも政界でも一向に危機感を呼ばぬところに、真の危機がある。

  日本は、日本弱体化を狙う内外の破壊勢力に政権中枢部まで浸透されていて ( 註2 ) 、 「 半分茹で上がった状態 」 になっているのかも知れない。それなのに危機感が出てこないため、一層危機を深めている。

( 2 ) 拙稿 「 『 反日 』 はびこる不思議の国ニッポン 」 ( 正論 『 産經 』 03年5月9日 )

   拙稿 「 『 日本の再生 』 こそ世界を救ふ 」 ( 正論 『 産經 』 08年12月10日 )


  或いは、危機を緩和してくれそうもない時の政権に反撥もせず、形勢を觀望しているうちに危機が深まって行く、という構図かも知れない。

  この辺り、日台両国に共通する。


  但し、自由民主国は独裁国と違い、多様性の中である種の安定を維持しているから、一見して混沌・無秩序・混乱と見えても、意外にしぶとさとしたたかさを発揮する。

  本当の危機に直面するとパニックに陥り、ワイマール民主制がヒトラーを選んだような事態が生じかねないものの、

  そして、米国発の強欲資本主義がとんでもない金融危機を惹起して世界経済を揺るがしている今は、對策を誤ると大混乱が生じかねないものの、

  冷静に観察すれば、表面的事象の下に太い安定志向の底流が流れているのかも知れない。


  さて、本稿の主題は 「 馬政権就任後の台湾の政情 」 である。


  2008年に私は3度、台湾に行った。

  1月の立法委員選挙。

  3月の総統選挙。

  6月に就任1ヶ月後の馬政権視察。

  そして航空便で台湾の新聞を取り、毎日ネットで台湾情報を検索している。

  そんな私にとって、台湾は 「 前途不透明の中で危うく均衡を保っている 」 ように見える。


  以下、私なりに台湾の 「 底流 」 が理解できる問題点を幾つか探ってみよう。

  ( 伊原註:今年書いたもののうち、一番包括的なのが、今年8月現在の執筆ではあるが、東京台湾の会の 『 台灣研究資料50 』 に書いた 「 台灣の將來豫想と日台関係 」 である。本 「 讀書室 」 に掲載してあるので御覧下さい )


       中共に投降した連戦


  1月の立法委員選挙で中国国民党が大勝し、3月の総統選挙で8年ぶりに国民党が政権に返り咲いた。

  台湾本土派 ( 「 中国は中国、台湾は台湾 」 として中国とは別の台湾独自路線を主張する人達 ) は 「 蒋家専制支配時代への復帰 」 の危険におののいたが、それは中国共産党 ( 以下、中共 ) に投降した連戦路線への警戒心に発していた。


  連戦は、36年8月27日、中国西安生れの中国人である。

  連戦自身、米国で 「 私は純粋な中国人 ( pure Chinese ) だ。そしてそれを誇りにしている 」 と公言している。


  慶應大学出身の父、連震東が2003年台南生れなので台湾人とされるが、連震東が日本統治時代に南京国民政府に投じたため、連戦は西安で生れ、初等教育を西安で受けている ( 註3 ) 。

( 3 ) 連震東は、蒋介石軍が日本軍に連戦連勝するよう、息子に 「 連戦 」 「 連勝 」 と名付けるつもりであったが、次男が生れなかったため、 「 連勝 」 はこの世に存在していない。

   そして皮肉なことに、台湾総統選で連戦は 「 連戦連敗 」 した。


  連戦の母も妻も中国人なので、辛うじて祖母との対話に使っただけのホーロー語は決して流暢ではなく、台湾育ちに較べて些かたどたどしい。


  でしゃばり型ではないので大人しく従順と見られ、李登輝総統が後継総統にして台湾民主化の任務を託そうとしたが、台湾大学教授時代に妻をよく殴っていたという使用人の話からすれば、決して大人しいだけの人間ではない。我が儘で癇癖の強い人物らしい。

  それに、大人しく見える人は、平生控え目にしている分、自分が権力を握った時には抑制が利かなくなることが珍しくない。


  連戦が本性を顕すのは、2000年と2004年の総統選挙に負けてからである。

  とりわけ2004年の総統選では、親民党の宋楚瑜を副総統候補にして過半数は必ずとれる筈の態勢で臨んだのに落ちた。

  総統選落選後に連戦が 「 選挙無効 」 「 当選無効 」 「 不公平 」 を叫んで散々ごてたのは、中共と 「 今度は必ず勝つ 」 と約束していたからではないかと私は推測した ( 註4 ) 。

( 4 ) 拙稿 「 二〇〇四年台湾総統選の決着 」 ( 『 問題と研究 』 2004年5月號、62頁 )


  初めは国民党の常套手段 「 不正操作 」 を民進党がやったと思い込んでいたらしいが、そうでないと判ってからは、落選で自分に恥をかかせた台湾の有権者に 「 復讐 」 ないし 「 懲罰 」 を決意したのではないかとも私は推測している。


  かくて2005年4月末に訪中し、生れ故郷の西安を訪ねる前に北京で胡錦濤中国共産党総書記と会って国共トップ会談をやり、公然と北京の 「 一中 」 路線に投じた。

  台湾住民に断じて独立させぬ "懲罰" 路線である。

  「 お前らの思うようには絶對させぬゾ 」 との意が籠められている、と私は推測する。


  中共側は、中国国民党主席連戦との会談を 「 第三次国共合作 」 と考え、 「 台湾併呑は時間の問題 」 と安堵の胸を撫でおろしたらしい。

  あとは、台独の動きを抑えつつ、熟柿が落ちるのを待てばよい、というわけである。


  宋楚瑜も親民党主席として訪中し、連戦同様、胡錦濤中共総書記と會談した。

  これも中共への投降である。

  このとき、陳水扁總統が胡錦濤への メッセージを託したと言われている。


  新党主席郁慕明も訪中して、小党なので胡錦濤中共総書記とは會談して貰えなかったが、これで台湾の野党、即ち在台中国人勢力は、軒並み中共の 「 一中 」 路線に降った。


  お人好しの台湾人は、民進党政権時代の野党 ( 在台中国人勢力 ) が軒並み中共に投降した事実を認識していない。

  だから、2008年に在台中国人政党を大勝させたのである。

  投降を認識していたら、中共に併呑されたくない台湾人は中国国民党に投票してはいけなかった筈だ。

  しかし台湾人は暢気な人が多く、未熟な民進党を見捨てて中国国民党を政権に復帰させてしまったのである。

伊原註:台灣の有權者は1月の立法委員選舉で国民党を圧勝させたので、台灣人はその危険さに氣付くに違いないと考えた私は 「 台灣に鳴り響いた 『 神の聲 』 」 ( 正論 『 産經 』 2008年1月29日 ) を書いて、總統選では揺り戻しがあって民進党の謝長廷が選ばれるのではないかと予想 ( 期待 ) したのだが、台灣の有權者は何らの危機感も持たず、同じように在台中国人の總統を選んでしまった。


  一言、但書を付け加えておくと、外省人 ( 在台中国人 ) の中にも、そして外省人に尻尾を振ってついて行っている台湾人 ( 在台中国人よりも中国人的な台湾人が尠くない ) の中にも、台湾で生き延びて行くには、好むと好まぬとに拘らず 「 本土化 」 せざるを得ないと考えている人が尠からず居る。

  だから台湾には、併呑されずに生き延びる道がまだ開けているのである。


       連戦と一線を画する馬英九


  国民党 ( 在台中国人党 ) に投票した台湾人を 「 弁護できる事情 」 がある。

  2008年、中国国民党に投票した台湾住民は、連戦の国民党に投票したのではなく、馬英九率いる国民党に投票した。

  なぜなら、馬英九は連戦と一線を画そうとしているように見えたからである。


  馬英九は、連戦らが北京に公然と投降した2005年、その夏 ( 7月 ) に行われた中国国民党主席選挙で、連戦と喧嘩分れした。


  2005年の夏は、台湾政治史上、本土派の敗因をつくった重大な年である。


  第一、既述の通り、春に野党党首三人が訪中して軒並み中共の 「 一中 」 路線に投じたこと、つまり、現状通り自立を続けたい台湾人の 「 悲願 」 を封ずる行為に出たこと。


  第二、5月14日に 「 任務型国民大会代表選挙 」 があり、民主進歩党が中国国民党を引離して最大多数派になりながら国民党に迎合した。

  6月7日の改憲で国民投票に異常なほど高いハードルを課する中国国民党案を通して憲法制定も憲法改正も不能にしたし、中国国民党の小選挙区案に賛成して、少数派の在台中国人が絶対勝てない中選挙区制を、少数派の在台中国人でも勝てる選挙制度に切り換えて本土派の墓穴を掘った。

  2008年1月の立法委員選挙の民進党大敗は、このとき約束されていたのである。


  台湾本土派の期待に応えず、台湾民主主義の前途を暗くした民進党と陳水扁総統の不甲斐なさ、見通しの無さは、 「 罪萬死に値する 」 と言いたいくらい大きい。


  第三が、いま問題にしたい7月16日の中国国民党主席選挙である。

  この選挙に馬英九 ( 外省人・台北市長 ) は 72%の得票を得て 28%の王金平 ( 本省人・立法院長 ) を破ったのだが、この選挙で馬英九は連戦と袂を分かった。


  2000年の総統選敗北後に李登輝を党主席の座から追い、中国国民党主席となった連戦は、このとき、なお続投するつもりだった。台湾人に対する懲罰がまだ済んでいなかったからである。

  連戦の意図を察知した王金平は、 「 連戦主席が続投されるなら、私は主席選挙への出馬を取りやめます 」 と申出て連戦に迎合した。

  ところが馬英九は、直ちに連戦の申出を受入れ、引退に追込んだのである。


  連戦が、中国国民党の主席選挙に際して 「 私もそろそろ主席を退こうと思う 」 と言ったのは、 「 まだお元気ですよ、どうぞ続けて下さい 」 と言わせるための誘い水発言だった。

  それを察知した王金平は譲る姿勢を見せたのに、世代交代を目指していた馬英九は連戦を名誉主席に祭り上げて退路を断った。


  恨み骨髄、怒り心頭に発した連戦は、主席投票で王金平に票を入れ、それをマスメディアに察知させて 「 連戦は馬英九でなく、王金平に投票した 」 と報道させ、馬英九にあてつけをして鬱憤を晴らした。

  ゴム印にたっぷりインキをつけ、投票用紙に強く長く押し付けて裏からも透けて見えるようにして、要人の投票風景の寫真を撮るメディア相手に投票箱の上で長時間かざして、選んだ候補を報道陣に悟らせたのである。


  以後、連戦と馬英九の間柄は冷戦状態、いや、今なお屡々熱戦状態になる。


  世代交代を考える馬英九は、国民党の先輩とは距離を保ちつつ、若い世代を権力基盤にした。

  台北市長時代から若者を率いていて、長老には余り近づかなかった馬英九だが、蒋家専制支配時代から続く寡占状態の在台中国人メディアの支持宣伝を受けて、選挙には常に圧倒的強みを発揮した。

  何しろ、国民党も時と共に人材が払底し、馬英九に代る総統候補が見つからなかったのである。


  だが、世代交代論で直ぐ上の先輩世代を敵に回した馬英九は、若い世代、即ち若い台湾人の票獲得のため奮闘せざるを得ない。

  そこで2008年3月の総統選のため、馬英九は、ブレーンの助言を得て、本土派の牙城である中南部の票を集める作戦を立てた。

  その好例が、福建系台湾人の言葉 「 ホーロー語 」 の学習と、ブレーン金溥聰 ( 清朝皇族愛親覺羅一族 ) が提言した 「 ロング・ステイ 」 という中南部の民家泊込という肉薄作戦である。

  こうして本土派を取込むことによって、族群対立を煽る民進党の選挙戦術の裏をかいた。

  馬英九の中南部浸透作戦により、相変らず族群対立・外省人孤立化策戦をとった民進党の陳水扁・謝長廷の選挙戦術は 「 旧態依然 」 と愛想をつかされ、空振りとなった。


  かくて台湾の若者は、陳水扁時代の与野党対立を引きずりそうな謝長廷民進党候補を避け、台湾に新しい前途を開いてくれそうな 「 若い 」 馬英九国民党候補を選んだのである。

  馬英九の台湾本土派取込策は、見事功を奏した。


       當選後の馬英九の迷走


  馬英九の当選は、台湾各界の期待を担ってのものだった。

  民進黨の総統候補謝長廷に投票した 42%は別として、馬英九に投票した 58%の有権者は、台北市長時代の馬英九の無能な実績には目をつぶっていた。

  だが当選した馬英九は、

  「 総統候補馬英九 」 → 「 総統当選者馬英九 」 → 「 総統馬英九 」

と三段跳びで変身する。


  選挙戦で表に出していた台湾本土派寄りの姿勢が引っ込み、選挙中に隠していた 「 中国寄り姿勢 」 と、経済無策の正体を曝露するのである。


  総統候補馬英九は、楽観的約束をした。

  その代表が経済改善の公約、 「 馬上好 」 のスローガンと 「 六三三 」 の公約であった。


  「 馬上好 」 とは、 「 馬英九が当選すれば良くなる 」 「 直ちに良くなる 」 という二重の意味を一つに束ねた標語である。

  「 馬英九が総統になれば/直ちに/良くなる 」


  しかしこれは6月28日、 「 九萬兆 」 の三巨頭 ( 総統馬英九・副総統蕭萬長・行政院長劉兆玄 ) と行政院景氣專案小組召集人邱正雄 ( 行政院副院長 ) の四人が鳩首談合した結果、

  「 馬上漸漸好 」 ( 馬英九が総統になれば徐々に良くなる )

と言換える羽目になった。

  馬総統就任後、石油価格上昇と食料価格上昇に代表される物価上昇と、米国発金融危機に基づく株価急落の往復びんたで台湾経済が悪化したためである。


  「 六三三 」 の公約とは、

     年平均六% 以上の経済成長率を実現する

     一人当り国民所得を三万米ドル以上にする

     失業率を三% 以下にする

というもの。

  これも世界不況の煽りを受けて9月3日、その実現を二期 ( 16年まで ) に先送りした。

  ( 野黨から 「 二期目に当選できると思っているのか! 」 と野次が飛んだ )


  経済改善公約の破綻を代表する株価下落について、一言しておこう。


  馬英九は、国民党が政権に復帰すれば、株価指数は忽ち二千点上がると言っていた。

  二千点でなく、二万点上がると受取った人も居る。


  ところが株価は就任以來、下がる一方であった。

  5月20日の総統就任式の前日に9068点だった株価指数は、

  就任一ヶ月の6月20日に7902点に下がり、

  7月中に一旦6708点と底をついた。

  8月に少し恢復したものの、その後どんどん下がって

  12月12日金曜日の株価指数は4481点である。

  12月には4000点台で動いていて、馬英九総統就任後、2000点上がるどころか、半減している。

  ( 伊原註:2009年2月現在も4000点台の攻防が続いている )


  台湾では、主婦や學生まで株を操作しているから、馬総統就任後の株価半減は、庶民の財産と購買力を激減したと言える。


  国民党政権はグローバル化した国際経済のせいにしたいようだが、民進党政権時代に専ら陳政権の無能のせいにしてきたのは当時の野党、国民党であった。


       馬政權の中國接近


  私の友人を不安にさせたのは、馬政権の急速な中国接近である。


  第一、当選翌日 ( 3月23日 ) の海外記者との記者会見で、胡錦濤が言ったからと称して 「 92年の合意 」 ( 共に 「 一つの中国 」 を認めるが、中国が何を指すかはそれぞれがいう、つまり中共は 「 中国=中華人民共和国 」 と云い、台灣は 「 中国=中華民國 」 という、の意味 ) 採用を表明し、中共の提唱する 「 一中 」 原則に接近したと思われたこと ( 註5 ) 。

( 5 ) 「 承認九二共識 馬接受一中各表 」 ( 『 自由時報 』 3月24日、一面 )

    「 馬:一中各表原則下 擱置主權爭議 兩岸簽訂文件 一定要經立院同意 」 ( 『 聯合報 』 3月24日、一面 ) 。


  第二、5月の総統就任演説で 「 胡錦濤の理念は……私達の理念とかなり一致している 」 と言い、 「 大陸13億の同胞 」 と言ったこと ( 註6 ) 。

( 6 ) 馬英九総統の就任演説全文=台北20日電、中央通訊社。

   邦訳は行政院新聞局 「 台湾ニュース 」 。何れもネット情報。


  大陸の中国人が 「 同胞 」 なら、台湾の前途は台湾住民だけでは決められなくなる。

  馬英九の公認の中国政策は 「 統一せず、独立せず、武力行使せず 」 の 「 三ノー 」 である。

  しかしこれが守れるかどうかは、中共政権の意向次第であって、台湾に決める力はない。

  しかも馬英九は 「 終局的統一 」 を目指しているから、併呑への道しかない。


  第三、5月26日からの呉伯雄中国国民党主席の訪中。

  28日の胡錦濤中共総書記との会談は、全く中国主導で終始した。

  米国在住の台湾観察者アンディ・チャンは、台湾を中国に明渡すに等しい協議書に署名して帰ってきた呉伯雄は、 「 山海関を開いて滿洲族ドルゴンの軍隊を引き入れ、明朝を亡ぼした裏切り者呉三桂に等しい売国奴だ 」 とまで罵っている ( 註7 ) 。

( 7 ) アンディ・チャン 「 台湾、夏の陣 」 ( 「 台灣の聲 」 【論説】7月8日 ) 。

   この表題は、呉伯雄の訪中が、外堀を埋められた大坂城同様、台湾の滅亡の始りだという意味である。


  呉伯雄は馬総統を 「 馬先生 」 としか称べなかったし、 「 92年合意 」 の後半 「 各自表明 」 も認めさせられなかった。台湾の世界保健機関 WHOへのオブザーバー参加も胡錦濤から 「 優先的に討議してよい 」 と口先だけであしらわれて確約は得られず、台湾に向けたミサイルを減らす約束もとりつけられなかった。

  馬政権は党対党の立場でも 「 対等の立場 」 を受入れて貰えなかった ( 註8 ) 。

  呉伯雄が 「 兩岸は末永く戦争なし 」 と言ったのは、国民党が中共に屈服したからである。

( 8 ) 阮銘 「 胡錦濤吃定馬英九 」 ( 台灣教授協會 『 極光 』 6月2日 )


  第四、チャーター便の定期便化。

  馬英九の選挙公約 「 台湾経済恢復 」 の目玉は週末 ( 金土日月 ) チャーター便の定期便化と、一日3000人を限度として中国人観光客に台湾を開放し、旅行業界を潤す政策である。

  これは7月中旬から実施したが、利用するのは台湾人実業家が多く、中国人観光客は一日平均三百数十人と、最大枠の十分の一に留り、ホテルを増設した台湾人は大損した。


  しかも、経済ばかりでなく、台湾の安全保障に重大な脅威を齎した。

  台湾の主要空港が人民解放軍に急襲占拠される危険が生じたのである。


  台湾は、週末便に八空港を開放した。

  台北松山・桃園・台中清泉崗・高雄小港・台東・花蓮・澎湖馬公・金門である ( 註9 ) 。

( 9 ) 『 聯合報 』 08年6月13日、三面。

   この記事では中国側は、それまで祝日 チャーター便を飛ばしていた北京・広州・厦門・上海のほかに、南京を増やした五空港を開いた。

   年末までに成都・大連・深●〈土/川〉・桂林・杭州の五空港を増やすと 「 消息通 」 が漏らしたと報道している。


  5月末に訪中した呉伯雄国民党主席が チャーター便定期化について中国側の基本的了解を獲得。

  6月12日に訪中した江丙坤海峽交流基金會 ( 海基會 ) 董事長が中国側の海峽兩岸關係協會 ( 海協會 ) の陳雲林會長とのトップ会談でこれを決めた。

  そしてその直後の18日、中国人民解放軍がえらい軍事演習をやってのけた。

  しかもそれを新華社がカラー寫真入りで大々的に報道したのである ( 註10 ) 。

( 10 ) 新華社網6月20日報道。

   台湾では 『 自由時報 』 6月29日が二面で 「 模擬攻台? 中國軍演 民航機運兵攻占機場 」 「 無視國安 台灣坐等木馬屠城 」 という大きな見出しで詳しく報道した。


  軍が中国民用航空局と組み、河北省石家莊空港で 「 航空應急投送演練 」 という軍事演習をやったのだ。

  8機の民間航空機を徴用し、特殊作戦部隊と装備を乗せて飛ばせ、着陸した空港を一挙制圧して作戦拠点をつくる演習、というのだから穩かでない。

  中共軍総後勤部が北京軍区・中国空軍・中国民用航空機と組んでやった演習は五段階から成る。

  輸送計画・直前の準備・快速搭載・飛行掌握・緊急展開と特殊作戦


  徴用航空機が搭載したのは、作戦部隊のほかに、下記の物騒なものである。

  落下傘兵突撃車・レーダー車・通信車・偵察車など。


  演習は午前9時35分開始。

  部隊および各種車輛を急速搭載し、緊急輸送の上空港に強制着陸して特殊大隊の指揮所を構築した。


  これをカラー寫真入りで新華社が公開した意図は明らかである。

  台湾を含む世界中に台湾併呑の意志を示し、抵抗や支援を断念さすためだ。

  本土派の新聞 『 自由時報 』 はこれを 「 トロイの木馬 」 とする記事を載せたが、台灣はのんびりしていて、一過性の危機感で終ったようだ。


  この チャーター便の定期化は11月4日に台北で行われた江丙坤・陳雲林会談による四項目合意で擴大され、12月15日から定期便が平日も運航されるようになった ( 註11 ) 。

( 11 ) 「 鐵網戒護下 四協議簽訂 」 ( 『 自由時報 』 11月5日、二面 )

「 12月15日より兩岸平日 チャーター便へと擴大運行がスタート 」 ( 『 台灣週報 』 台北駐日經濟文化代表處12月2日 )


  航路を変更して迂回せず、到着時間が短くなった分、台湾が急襲されやすくなった。


  第五、対中投資制限の緩和と中国資本の台湾投資奬勵。

  行政院が7月17日の閣議で 「 大陸投資金額の上限緩和および審査の快速化方案 」 を通過し、8月1日から実施することにした ( 註12 ) 。

( 12 ) 「 行政院:対中国大陸投資金額の上限を緩和 」 ( 『 台北週報 』 行政院7月17日/台北駐日経済文化代表處7月18日 )


  李登輝政権も、それを継いだ陳水扁政権も、台湾経済の空洞化を避けるため設けていた制限を、馬英九政権は大幅緩和したのである。


  個人=対中投資の上限額の緩和。

     現行の八千万台湾元 ( 邦貨二億七千二百万円 ) を年間五百万米ドル ( 邦貨五億五千万円 ) へ。

  中小企業=八千万台湾元または純資産か合併純資産の 30%を、60% までに緩和。

  大企業=純資産か合併純資産の 20%だったのを、60% までに緩和。


  これで台湾経済は、中国へのさらなる資金流出に惱むことになる。

  中国資本に台湾への投資を促したことも、台湾本土派に警戒心を呼び起こした。


  第六、馬英九は、 「 中台は国と国の関係ではなく、地区と地区の関係 」 と述べて台湾が国家であることを否定した。

  李登輝総統は 「 特殊な国と国の関係 」 と言い、陳水扁総統は 「 台湾海峡兩岸はそれぞれ一国 」 と表明して台湾が主権国家であることを明言したが、馬英九総統は8月26日取材、9月3日掲載されたメキシコ紙とのインタヴューで上記の発言をした ( 註13 ) 。合わせて一国だというのである。

( 13 ) 「 馬英九総統、メキシコ紙のインタヴューで兩岸關係を語る 」

    ( 総統府9月3日/ 『 台灣週報 』 台北駐日經濟文化代表處9月4日 )


  第七、司法を使った台湾本土派への政治迫害。

  10月28日、汚職 「 容疑 」 で民進党籍の陳文明嘉義縣長を拘留。

  10月31日、外交機密費横領容疑で陳水扁側近の邱義仁前行政院副院長を身柄拘束し、長髪を強制的に丸刈りにして辱めた。陳水扁側近はほかに八人が拘留中。

  また11月4日には同じく民進党籍の蘇治芬雲林縣長を汚職容疑で拘留。

  そして11月12日、陳水扁前総統に容疑のまま手錠をかけて拘留して辱めた。

  何れも 「 証拠を固めて 」 ではなく、 「 容疑 」 、それもメディアの容疑だけで拘留していることに注意!


  陳水扁は自分の拘留を 「 馬英九政権による政治的迫害だ 」 と訴え、 「 馬英九と中共が手を組んで私を追い込んでいる 」 と発言している ( 註14 ) 。

( 14 ) 『 朝日新聞 』 11月12日、一面/同、11月13日、六面。


  陳水扁の家族は軒並み特捜部から召還され、事情聴取中、等々。

  そして馬英九の対中急接近に対する本土派の懸念は、11月上旬の海協會陳雲林会長の來台で頂点に達した。


       陳雲林訪台と學生運動の發生


  「 野苺学生運動 」 と称する学生の坐込みハンスト運動が発生したについては、二つの布石があった。


  第一は、馬英九がかねてから、中国人学生の台湾留学を許可すると言っており、また中国の学歴を台湾で認めるというので、台湾の大学生は大学の門も就職の門も狭まると心配していたこと。

  この危惧は11月10日、鄭瑞城教育部長が発表し、12月4日、行政院が閣議で通過した 「 三限六不原則 」 で現実のものとなる。

  馬政権は、大陸学生に台湾の大学専門学校を開放し、中国の学歴を承認したのである ( 註15 ) 。

( 15 ) 「 開放陸生來台 鄭瑞城提出三限六不原則 」 ( 台北11月10日 『 中央通訊社 』 12時30分電 ) 、 「 行政院:大陸地區学生の受入れは 『 三つの制限・六つのノー 』 を原則に 」 ( 『 台灣週報 』 行政院12月4日/台北駐日經濟文化代表處 )


  第二は、海協會張銘清副会長の訪台である。

  厦門大学伝播学院院長の肩書で学術交流のため、台南芸術大学で開かれた台湾と中国のメディアに関するシンポジウムに出席したが、10月19日の來台以來、台湾に輸出した毒ミルク事件について謝罪するどころか、早期統一促進発言を繰返し、台湾独立は戦争挑発だなどと、台湾に對して高圧的且つ挑発的な発言を反復した。

  台南は陳水扁前総統の郷里。

  そこで中国人張銘清が傲然と台湾併呑発言を繰返したため、積年の中国の台湾圧迫の鬱憤を晴らすべく、群衆が彼にデモをかけた。


  10月21日、張銘清が台南市内の孔子廟を訪れた時、抗議の群衆が

  「 台湾は中国の一部ではない 」

  「 中国人は帰れ 」

と詰め寄った。

  言い合ううちに張銘清が自分で躓き転んだのを、在台中国人メディアは 「 押し倒した 」 と報道し、日本の新聞も 「 暴行 」 などと報じた。


  これで台湾本土派の嫌中感情が高まり、11月3日〜7日に訪台した海協會會長陳雲林に大デモをかけることになった。


  中共側は、陳雲林訪台に際して二度と事件を起こさぬようにと馬政権に安全確保を 「 厳命 」 した模様である。

  馬政権は警官七千名を繰出し、空港到着から宿所の圓山飯店まで嚴重警戒した。

  高速道路は全面通行遮断、圓山ホテル近辺から青天白日滿地紅旗を一切撤去など。その厳しい警備ぶりに、台湾本土派は 「 戒厳令時代の再現か 」 「 蒋家独裁時代への復帰か 」 と批判した。

  そして逆に 「 台湾が自由な社会であることを見せつけよう 」 と、デモ隊の方も勢い込んで、宿所の圓山飯店の窓から 「 台湾は台湾 」 「 陳雲林のばか 」 と大書した垂れ幕を垂らしたりした ( 註16 ) 。

( 16 ) 『 自由時報 』 12月4日、三面。


  評論家は 「 起て、奴隷たることに甘んぜぬ人々よ 」 と、中華人民共和国国歌の冒頭の文句を題に評論を書いた。


  陳雲林会長は連日デモに遭遇した。目ぼしいものは、以下の通り。


  5日晩、国民党主席呉伯雄が招いた夕食会に出た陳雲林は、食後も7時間に亙ってホテルに閉じ込められ、夜中の2時にやっと宿所の圓山飯店に帰れた。


  6日は馬英九総統との会談が予定されていたが、午後遅く予定されていた会談を馬英九がデモ隊の裏をかいて繰上げ実施したため、怒ったデモ隊は余計気勢をあげ、警察と流血の衝突が展開した。

  これは、警察の不法な厳しすぎる取締が主因であった。


  この衝突で群衆がホテルをびっしり取巻いたため、陳雲林が催した答礼宴に招かれた台湾側の客人の大半がホテルに入れず、テーブルがガラ空きのまま宴会を終えた。


  警察の 「 弾圧 」 に憤慨して6日から坐込みハンストを行ったのが、台湾大学学生を中心とする台湾各地の大学教授と学生たちである。

  かつて李登輝時代に 「 野百合運動 」 があって、学生が台湾民主化に貢献したが、それに倣って 「 野苺学生運動 」 と称する。


  台湾の新聞は連日カラー寫真入りで競合いの模様や野苺学生運動の様子を伝えたが、その経緯を逐一詳しく伝えるのが 「 紅色戒嚴 」 と題する長詩である ( 註17 ) 。

( 17 ) 「 台灣の聲 」 【來信】 「 紅色戒嚴──野苺運動の詩 」 12月14日、15時58分


  「 私達は、台湾の悲哀の歴史は前世紀にお蔵入りしているものと信じていた 」

  「 私達は母親がもう二度と自分の子が緑島の政治犯収容所に囚われたと泣暮らすことなどないと信じていた 」

  「 ところが11月3日から7日にかけて、警察は散々人民を打ちのめした…… 」

と始り、

  「 私達は絶対妥協しない。なぜなら私達は自由で誇り高い台灣人だから 」

で結ぶ。


  野苺学生運動の始まりは、流血の衝突が起きた11月6日のことである。

  黒装束で口にマスクをして、ネットで連絡をとり、全台湾各地から来た学生と教授が行政院の正門前に坐込み、警察に対して陳雲林来台期間中の警備の行過ぎに抗議した ( 註18 ) 。

( 18 ) 「 抗議警施暴 學界串聯靜坐 」 ( 『 自由時報 』 11月7日、六面 )


  彼らの要求事項は以下の三点である。

  第一、馬英九総統と劉兆玄行政院長は国民に公開謝罪せよ。

  第二、警政署長王卓鈞と国家安全局長蔡明朝は即刻辞任せよ。

  第三、立法院は速やかに人民の権利を狭める違憲の集会デモ法を改正せよ。


  馬総統も劉院長も沈黙を守り、坐込んだ学生たちは7日、忽ち警察に追払われた。

  そこで学生たちは自由廣場 ( 元蒋介石紀念堂 ) に場所を移し、 「 自由廣場 」 の額がかかった正門前でハンストの坐込みを続けて現在に到っている ( 註19 ) 。

( 19 ) 「 政院驅離/學生轉赴自由廣場靜坐 」 ( 『 自由時報 』 11月8日、一面 )


  五百名近くの大学教授が署名して坐込み学生支持を表明した ( 註20 ) 。

( 20 ) 「 近五百位大學教授 連署聲援 」 ( 『 自由時報 』 11月11日、三面 )


  これら教授は、これまでの台湾政界の 「 緑陣営 」 「 青陣営 」 という区分を超え、青陣営に属していた教授も名を連ねている。

  政界分布図に再編の動きが生じているのである。

  私が 「 世代交代 」 を強調する所以である。

  大学教授だけではない。庶民レベルでもこれまで国民党を支持してきた外省人が、今回、三立テレビの本土派視聴者参加番組に電話をかけてきて、外省人訛りでこう言ったという ( 註21 ) 。

( 21 ) 「 むじな@台灣よろず批評ブログ 」 11月12日


  「 これまで深青で国民党の忠実な支持者だったが、今回、国旗が警官に没収されたり、普通の庶民が警察に殴られたりしているのをみて憤激した。今後は緑になって台湾民主主義防衛隊を組織したい 」

  「 今回のデモには政権側が過激な挑発をする部隊を潛り込ませていたのが事実だ。私の隣人はそれで駆り出された 」


       台湾人の経済活力への期待


  知人の經營コンサルタント ( 投資相談 ) が最近、台湾を訪問し、感動して帰国した。


  「 台湾は活気があるなあ 」 という。

  ハイテク系企業へ行くと、これから投資すると意気込んでいたそうである。

  「 日本企業がなぜ韓国や台湾企業に追い越されたかがよく判った。彼らはこの状況でなお前向きに考えている。日本企業は守るのに精一杯で活気がない 」


  中国も活気があるではないかと反論すると、 「 中国は駄目だ 」 という。

  外国企業が持込んだ技術や外国から盗んだ技術を使っているだけで、自前で開発して自家薬籠中のものにする根性がないから、前途に見込みがないのだそうだ。


  これでよく判った。民進党の失政は、これら活力ある台湾企業を取り込めず、支援もしなかった点にある。

  では、馬政権はこれらの活力ある企業を支持者に取り込めるだろうか?

  馬政権7カ月の動きを見る限り、台湾の企業家に信頼されていそうにないが、米国発の金融危機が世界経済の実体まで揺るがしているいま、馬政権の真価が試されるのは2009年以降だと思われる。


  台湾の前途を考える上で注目点は二つ、

   台湾本土派の立場を守る野苺学生運動の前途

   馬政権の経済運営

である。

  そして、馬政権の経済運営手腕を語るにしては、今の世界経済は余りにも先行き不透明である。



【追記】

  台灣はやはり 「 併呑への道 」 を歩んでいる。

  本文は 「 併呑の危機迫る台灣 」 という線でまとめたが、書き上げてから初校が届くまでの間に、下記のような情報を得て、追記せざるを得なくなった。


  12月15日 中台貨物直行便開始。中共が求めて来た 「 大三通 」 が完全開通

  12月17日 ネットに掲載されたアンディ・チャン 「 馬英九の真骨頂 」 の警告:

        「 馬英九は皇帝を氣取っている 」 ( 宮崎正弘説 )

        「 皇帝は暗愚でも政権は成立つ 」

        「 馬英九は中国人だから陰険で残忍、決して暗愚ではない 」

        「 懐刀の金溥聰を香港に送り、中共とのパイプにしている 」

        「 台灣は確実且つ急速に人権を喪失し、独裁化が進んでいる 」

  12月18日 キーティング米太平洋軍司令官が ワシントンで 「 中国は空母開発を真剣に檢討中 」 と発言。

  12月19日 台灣行政院長、政府高官・軍人の中国渡航を解禁する意向を表明

  12月20日 中国、艦艇のソマリア海域派遣を公表。中国海軍の外洋進出

  12月20-21日  上海で国共兩党共催 「 両岸経済貿易文化フォーラム 」 開催。中台接近を強調。

       九項目の共同提言を採択。王毅国台弁主任が十項目の台灣支援策を公表

  12月23日 中国国防部が記者会見で 「 空母建造を真剣に檢討中 」 と発言

  12月23日 四川省成都から空路の直行便で パンダ 2頭が台湾に届き、桃園空港経由で木柵の台北市立動物園に入った


  台灣は 「 併呑への道 」 から引っ返せるだろうか?

  「 懸崖勒馬 」 ( 崖の手前で馬を止める ) は極めて難しいように見える。


  伊原追記:この論文の缺點=米國の對台政策について觸れて居ないこと。台灣を動かして居るのは、中共政權でもなく、台灣内部の動きでもなく、米國であり、米國在台協會 AIT台北事務所だからである。