「日系企業が中国へ投資するリスクについて」
(中国を考える4)
天津社会科学院客員講師 古森崇史
1.はじめに
ご存知の通り、2008年に入り、1月は餃子問題、2月は香港の芸能人写真流出事件、3月は台湾の総統選挙、4月はチベット問題と北京オリンピックの聖火リレーの問題、5月は胡総書記の来日と、日本では、次々と中国に関連する新しい話題が出現している。
そのような背景もあってか、最近の新聞や雑誌では中国関連情報が、毎日掲載されている。特に、反中の特集を組むと、雑誌の売れ行きが良くなるとの理由から、反中の特集ばかり組む雑誌も存在するようだ。いずれにせよ、日本において、中国に対する関心が高い事は、間違いない。
このような中、筆者は、2008年3月の中頃から4月の初めまで北京・天津を訪問し、様々な政府関係者等と意見交換を行ってきた。約3ヶ月ぶりの訪問であったが、外資系の企業を取り巻く環境の変化は、予想以上に大きかった。
特に、最近の法律改正等が日系企業に与える影響は大きく、日系企業はその対策に頭を悩ませている。また、北京オリンピック終了後に、バブル経済が一気に崩壊するという見解が、日本では頻繁に見受けられる。このような環境下で、多くの日系企業が対中投資に対して慎重になっている。
実際に、2007年以降、日系企業の対中投資は、中国側の予想を下回っている。2007年の日系企業の対中投資額は、2006年に比べ約25%減少したようだ。中国で現在最も注目されている、濱海新区の中核たる天津経済技術開発区(TEDA)への日系企業の投資も、政府関係者によれば、伸び悩んでいるとのことだ。
これら、一連の法律改正等とバブル経済崩壊の可能性は、いわゆるリスクの一環として考える事ができる。
そこで、今回は日系企業が中国へ投資するリスクについて考察することにする。
2.リスクを分析する幾つかの視点
チャイナリスクという言葉を新聞や雑誌で様々な見解が見受けられるが、不必要にチャイナリスクという言葉を煽るようなものが多い。日系企業は、そのような見解に惑わされることなく、客観的にリスクを分析して、リスクを最小限にするように行動する必要がある。
どのようにリスクを分析するかについては、様々な視点があるが、ここでは幾つかを紹介する。
まず、中国人によるリスク分析の視点について紹介する。中国輸出入銀行の李福勝研究員は、『国家風険』(社会科学文献出版社、2006年9月)の中で、「(狭義の)カントリーリスクとは、国家のある種の特定の政治、社会、経済、金融、自然環境及び突発的な事件等の要因により経済利益の損失を引き起こす可能性の事を言う。」とリスクを定義づけている。
そして、伝統的には、リスクを、@政治リスク、A経済リスク及びB金融リスクに分けて分析していたが、現代においては、それらに加えて、C非伝統的なリスク(テロ、宗教や資源の衝突、SARSやエイズといった動植物の疫病、民族衝突、生物の侵害、炭素菌や核兵器といった生物化学兵器、自然災害、人類公害、生産の安全性、突発事故等)を含めて分析する必要があると述べている。
次に、日本人によるリスク分析の視点について紹介する。愛知大学の服部健治教授は、『「市場としての中国」の台等と日本企業の対応』(中国21.vol21、229頁)の中で、中国的リスクを@予見出来るか出来ないか、A解決出来るか出来ないかという軸で分類して分析している。
JETRO北京事務所の真家陽一副所長は、『中国でのリスクを体系的に整理する』(ジェトロセンサー2005年10月号、40頁)の中で、チャイナリスクを、@カントリーリスク(政治、社会、経済)、Aオペレーションリスク(投資環境、生産、販売、財務・金融・為替、雇用・労働)、Bセキュリティーリスク(対日抗議活動、治安悪化、新興感染症)に分類して分析している。
3.中国の現状
(1)中国の法律改正等の問題
中国の様々な法律改正等のうち、特に日系企業に関連するのは、「労働契約法」、「企業所得税法」、「個人所得税法」であろう。改正等の概略を述べると以下の通りである。
(1)−1 労働契約法(2008年1月1日から施行)について
『中華人民共和国労働法律選編』(人民出版社、2008年1月)によれば、改正内容等は、以下の通りである。
第一に、労働契約期間。これまで、中国人労働者と会社の関係は、毎年契約をするという形態が多かった。しかし、今後は、@連続して10年以上就業している場合や、A2回連続して労働契約をして問題なかった場合は、その後固定期限のない労働契約(日本でいう終身雇用)の締結をしなければならない。
第二に、契約の書面化。労働契約成立に当たって、書面で契約締結せねばならず、書面で契約の締結をまだしていない場合には、1ヶ月以内に契約の締結をしなければならない。なお、契約の際、身分証を押収する事や、担保の提供を求める事は禁止されている。
第三に、経済補償金。経済補償金(日本で言う退職金)の支払い義務が細かく規定された。具体的には、勤務期間が@6ヶ月未満の者は半月分の給料、A6ヶ月以上1年未満の者は1ヶ月分の給料、B1年以上の者は勤務年数×1ヶ月の給料として計算する。
これらだけ見ても分かるように、労働者の保護が前面に出て、企業側の負担は大幅に増えた。この背景には、劣悪な労働環境において、労働者の不満が相当溜まっており、不満を解消する必要があったという事情がある。
(1)−2 企業所得税法(2008年1月1日から施行)について
『中華人民共和国企業所得税法』(吉林人民出版社、2007年4月)によれば、『外商企業及び外国企業所得税法』(1991年4月9日に全人代を通過)と『企業所得税暫行条例』(1993年12月13日に国務院が公布)が廃止される。その結果、経過措置等はあるものの、経済開発区等に投資した外資企業に対する優遇措置の多くが無くなる。そして、外資企業と内資企業共に税率が25%となる。
以前は、内資企業と外資企業の税率があまりにも差が多く、内資企業には不評であった。そこで、税制上の不平を解消する必要性が高まり、今回の改正に至った。
(1)−3 個人所得税法(2008年3月1日から施行)について
『中華人民共和国個人所得税法』(法律出版社、2008年1月)によれば、今回の法改正は、主に中低所得者を保護する目的で以下のように行われた。
1980年に成立した個人所得税法では、課税最低額は800元であったが、2006年1月1日からは1600元に変更された。そして、今回の改正法で、2000元まで引き上げられた。
政府の試算では、都市における、就業者1人当たりの1ヶ月の消費支出は、2007年は1586元で、2008年は1745元である事と将来を鑑み、2000元が妥当と考えたようである。この結果、課税される就業者は、50%から30%に減り、財政収入も約300億元(約4500億円)減少する。
(2)バブル経済の問題
(2)−1 マクロコントロールの必要性
筆者は、現在の中国の不動産価格は、正常ではないと考えている。株価に関しては、上海の総合株価指数は2007年の10月、6,000以上であったが、2008年4月現在では約3,100となっており、今後も更に下落する可能性がある。不動産価格に関しては、上昇し続けている地域もあるが、これはディベロッパーが世論操作している可能性がある。
現在の中国では、株価が下落し、多くの人が損失を出したとしても、あくまでも自己責任であるという風潮がある。しかし、不動産の価格は、投機目的の購買が多いとは言え、全ての人に関係するだけに、複雑な問題である。一般的に、株価だけが下落し、不動産価格が上昇する事は考えられない。このような中で、バブルを日本のように崩壊させないようにするためには、政府がうまくマクロコントロールして、ソフトランディングさせるしかない。
その必要性を中国政府も感じており、日本やアメリカのバブル経済の研究を行っているようだ。例えば、中央政府の知恵袋の一人である林毅夫教授(世界銀行副総裁)が主任を務め、様々な意味で有名な北京大学中国経済研究センターの研究者は、アメリカのトップ30大学で博士号を取得した者ばかりが採用されている。また、中央政府のシンクタンクである中国社会科学院日本研究所でも、日本の大学で博士号を取得した研究者が多く在籍している。
彼らは、アメリカや日本の最新理論や経済の歴史等を相当研究しており、当然バブルに関する研究も相当進んでいるはずである。しかしながら、林毅夫自身は、バブルに関して記者等に聞かれても、曖昧な回答しかしていない。
(2)−2 大部分の政府関係者等の認識
筆者は、今まで色々な政府関係者と不動産の価格に関する議論をした事がある。日中間の不動産に関する法制度の違いや、西村清彦日本銀行副総裁が書かれた不動産の価格に関する書籍等を要約して説明した。
しかしながら、「あなたは中国の政治経済に対して理解が足りない。『西方経済学』の理論ばかり学んでも、ここは中国なのだから、その理論がそのまま当てはまるわけが無いじゃないか。」と何度も諭された。
財務省財務総合政策研究所の、『平成17年度第5回「中国研究会」議事録』にも、<…バブルを、ファンダメンタルズとの関係で研究している人はいませんでした。単に土地の価格が上がった事をバブルと定義しておられる、という印象を受けました…>と書いてあるように、中国で、日本やアメリカのバブルの分析を理論的に行っている人は、少数派であるようだ。
現在の中国経済を分析する上で、バブルを理論的に考える事は、役に立つと思うのであるが、なかなか分かってもらえないようだ。
4.リスクの分析
(1) 中国の法律改正等の問題
第一に、労働契約法について。日系企業にも、不合理な規定はあった。例えば、某日系大手企業では、通訳の従業員を日本へ出張させると、その後1年間その企業で働かなければならず、1年以内に自己都合退職した場合は、多額の違約金を支払わなければならないとする規定があった。
しかしながら、私が見る限り、総体的には、日系企業は中国人従業員を大切に扱っていたし、従業員も不満を言いながらも、長年働き続けるケースが多かった。これに対し、韓国企業の評判は、総体的に悪かったようだ。
このように、日系企業が労働環境の改善に努めても、他国の企業や中国企業が労働環境の改善に積極的でない場合、強制的に労働環境の改善を求められ、負担が突然増えるリスクが存在する。
第二に、企業所得税について。今まで、税金の優遇措置という外資企業にとっては魅力的な規定も突然変更されたり、廃止されたりするリスクが存在する。これは、一企業レベルでは、解決できない。常に、新しい動向を入手する必要がある。
第三に、個人所得税について。中国国内の中低所得者を保護するため、個人所得税法が改正された事により、直接的な因果関係は無いにも関わらず、外資企業が負担増に直面するというリスクが存在する。
(2)バブル経済の問題
日本では、中国のバブルが崩壊するのが当然であると論ずる者も存在するが、一気に崩壊すると、各国の株価等に当然影響し、日本経済はもちろんの事、世界経済全体にも大きな影響が出ると予想される。また、バブル崩壊により、中国の政治体制にまで影響が出た場合は、さらに深刻な影響が出ると予想される。
このように、中国のバブル経済の問題は、もはや中国一国の問題ではない。バブル経済に対して、中国が誤った処方箋を施すと、外国である日本にも国境を越えて必ず波及する。このような巨大な経済リスクは、国家レベルの問題である。
5.筆者の見解
(1)中国政府に求める事
第一に、外資企業優遇措置を再び打ち出すべきである。一連の法改正等からは、@技術力が低く労働集約型の外資企業やA優遇措置だけを目的にしている企業は、もはや中国には必要ないが、技術力の高い企業は今後も必要だという中国政府の考えが見て取れる。ご存知の通り、現在中国では、全ての日系大手電気メーカーが携帯電話事業から撤退し、ユニクロや有名自動車関連企業等も、撤退も含めて今後の展開について色々と検討しているようだ。
今後の経済成長のために、高い技術力を持った外資企業に投資してほしいという中国政府の考えは、理解する事が出来る。しかし、技術流出をはじめとする様々なリスクがあるにも関らず積極的に対中投資を行い、雇用の機会を提供してきた日系企業の信頼を失ってしまうのではないか。日本と中国は、活発な経済活動の交流を通じて、WIN−WINの関係を築いてきた事を、忘れるべきではない。
また、ベトナムがWTOに2007年に加盟し、次々と外資系企業誘致のための政策を打ち出し脚光を浴び始め、ロシアに対する関心が高まっている現在、法改正するのは時期としても問題があるのではないか。
さらに、税収の不足分の埋め合わせを、外資企業への増税という形ですぐに求めるべきではなく、政府が無駄な支出を最大限減らし、それでも財源が不足するという場合に求めるべきであろう。
いずれにせよ、中国政府が、一刻も早く外資系優遇の政策を新たに打ち出すべきだと思う。
第二に、政府関係者の意識改革が必要である。筆者は、今まで色々な外資系企業を誘致する政府関係者と話したが、いくつか問題点を感じた。
例えば、インフラの整備を行えば、多くの企業が、比較的容易に中国に投資するという勘違いをしている機関が存在している事。また、売り上げ規模が1,000億円以上あるような大企業にばかり興味を示す機関が存在する事等である。
各国にとって、外国企業の投資は、その国の経済成長を左右する重大事項である。特に、中国ではその傾向が顕著である。現在、一連の法律改正やバブル経済への懸念から外資企業の対中投資に逆風が吹いている。このような中で、外国企業の投資を本当に誘致したいのであれば、外資企業が中国へ投資するリスクを中国の政府関係者が理解する事は当然必要である。
また、インフラ整備のみならず、環境問題の解決や「泥臭い」営業活動も必要であり、その際中小企業に出向く必要もあるのではないかと筆者は感じた。
(2)日本に求められる事
以上に述べたように、日系企業は対中投資にはリスクが存在する事をきちんと認識する必要がある。その上で、日本に求められる事は、何よりも冷静な対応であろう。
具体的には、以下の通りである。第一に、中国のバブル経済というリスクを、煽るべきではない。第二に、中国政府が、うまくマクロコントロール出来るよう、日本企業や日本政府は、協力出来る事は協力する必要がある。第三に、中国が恣意的な法改正等を行い、その結果日系企業が不利益を被った場合、日本政府は毅然とした態度で改善を要求するべきである。(2008年5月1日)