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海南タイムズ 平成24年1月
「大局眼」と三代目政治家に必要な「歴史観」
京都大学法学博士 岡本幸治
物事を正しく把握するには二つの目が必要である。第一に目先の事物を正確に認識する「虫の目」、第二に空高く飛翔して眼下の大勢を見て取る「鳥の目」。小と大、緻密さと大局把握、この二つの目を持たないと物事の判断は偏り易い。
日本の政治家に今特に求められているものは大局眼である。鳥の目である。虫の目は、統治に必要な細々した情報を収集蓄積している官僚を活用すれば良い。僕はかねてより日本は戦後最大の変動期に入ったと言っているが、実はこのような時代に不可欠な大局眼がもう一つある。「魚の目」である。鳥の目は現在只今の大局判断しかできない。今日のような大変動期(先進欧米も右肩下がりの三代目に入った!)においては、事ここに至った川の流れ、潮目の動向を感知する魚の目も併せ持つ必要がある。これによって初めて、大変動期の背後にある問題を把握することができる。
鳥の目と魚の目をあえて具体化すれば「歴史観」になる。「賢者は歴史に学ぶ」とは、歴史上の細々した事実を知るということではなく(それは単に「物知り」というに過ぎない)、変動期における賢明な判断には大局的歴史観が決定的に重要だという意味であろう。
振り返って見れば日本の識者は、明治以来文明開化の名の下に西洋の開発した歴史観を輸入して自国の歴史を解釈しようとしてきた。近代西洋の歴史観の主流は「進歩主義的」 歴史観である。これは十七世紀に西洋世界で科学革命が行われ、天動説が地動説となり、キリスト教的世界観が理性至上主義に基づく啓蒙主義思想に取って代わられる時代の産物なのである。マルクス主義の歴史観(唯物史観)もその一つだ。戦後の日本では歴史学会の主流を占め、現在でもその後遺症はなくなってはいない。社会主義国家の破綻によってその神通力は右肩下がりとなりはしたが。
時の経過と共に歴史は進歩するという近代西洋の進歩主義的歴史観の綻びは今や明らかである。これはそもそも西洋人が、自らの歴史を理解するために生み出したものである。西洋と異なる歴史を紡いできた日本人は、西洋渡来のハイカラ歴史観という色眼鏡で自国の歴史を眺める習性から、そろそろ抜け出す必要がある。
「平家物語」は平家興亡の歴史を叙述したものであるが、その根底には仏教の説いた諸行無常の理がある。万物は流転する、永遠に不変のものはないというこの指摘は普遍的真理であるが、普遍的すぎて現在の日本が万物流転のどの段階にあるか、今何をなすべきかという示唆を得ることは難しい。
そこで僕が開発したのが、江戸庶民の鋭い人間観察が凝縮している川柳の知恵を活用した「川柳史観」である。これは伊勢から上京して大をなした商人伊勢屋の三代の変遷を詠った川柳を活用したもので、初代二代と右肩上がりの発展を遂げた伊勢屋が、三代目に更なる発展を遂げると思いきや、「三代目伊勢屋鰹に二両だし」となり、遂に「売家と唐様で書く三代目」で破産すると指摘したものである。
現在進行中の変動期とは戦後日本の三代目を意味し、右肩下がりに転落して「売家」日本になる可能性があるぞという警告となる。道に迷ったときは出発点に戻り問題点を洗い出すことが肝要であり、これが現在このコラムで行っている作業である。三代目政治家の大局的開眼を期待している。