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海南タイムズ 平成23年6月
国歌斉唱時の不起立は「良心の自由」?
京都大学法学博士 岡本幸治
フクシマ原発の行方は気になるが、そのために戦後日本が抱えている重要問題を先送りにしてはならない。教育に関してそのような問題を一つ取り上げ検討しよう。
先般の大阪府地方選挙で躍進した地域政党・大阪維新の会が、府立学校の入学式や卒業式の国歌斉唱時に教員が起立することを義務づける条例案を五月の府議会で提出することになった。大阪府教委は平成十四年から国歌斉唱時の起立を府立学校に通達しているが、校長の職務命令まで無視して起立しない教師が未だにいる。昨年初めてそのような教師の何人かを軽い戒告処分に処したが、そんなことではへこたれない教員達が「君が代起立条例を許さない」緊急集会や反対運動を展開中である。
この先生達の長い言い分を忠実に要約すると以下のようになる。
1 単独過半数という一時的な「数の力」により、意見の多様性を認めない存在を否定する条例を大阪府民と教職員、子供達に押しつけようとしている。
2 憲法第十九条は「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」、第十四条は「すべて国民は法の下に平等であって……政治的、経済的、又は社会的関係において差別されない」と明示しているので、このような条例を持ち出すこと自体が違憲である。
3 条例案は教育を戦前の状態に引き戻そうとするものだ。
4 橋下大阪府知事は五月上旬に出した幹部職員宛のメールで、学校における国歌斉唱の根拠を指導要領に求めながら、「起立」については「教育問題ではない」「社会常識だ」とすり替え不起立教員への強制は政治判断の問題だとしている。彼の描く学校は、子供のためにあるのではなく「皇国ノ道ニ則リ」天皇のために身も心も捧げた皇国民錬成のための学校に近いものである。
国旗国歌は国家の象徴である。したがってそれを認めたくない、敬意を表したくない教員(以下君と呼ぶ)は日本という国家を認めたくないのである。国歌斉唱で起立すると戦前のような国家に逆戻りすると君は言う(3,4)。戦前なら(まともな独立国ならいつどこでも)君のような教育公務員がのうのうと国家の碌をはむ余地はない。国法で定め指導要領でも尊重せよと示していることにあえて従わないでおれるのは、国家観念の破壊を狙って憲法原案を作成し日本政府に下賜された米国占領軍のお陰なのだ。
そこで君は憲法の「良心の自由」と「法の下の平等」を持ち出す。中身のよくわからぬ「良心」を持ち出せば、何人も法的にそれを保証されると言いたいらしい(2)。
ならば授業の前に教師に起立敬礼することになっている学校で、「俺の良心にもとづき、尊敬できない教師に起立や敬礼はしない」という生徒に対して、その自由を認めるのか。「良心の自由」を持ち出せば、教育現場に不可欠な秩序維持に反する行為も容認する用意があるか。
民主国家では国民の総意が国家意志となる。総意とは(公共の福祉も)実際には過半数という「数の力」を意味するのが民主主義だ。それを君はケシカラヌと言う(1)。憲法第一二条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は……濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と定める。憲法のつまみ食いが得意な君は、教師を辞めヤクザの法律顧問にでもなったらどうか。