捕鯨問題は日本が日本であるための試金石だ

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捕鯨問題は日本が日本であるための試金石だ


愛媛大学農学部 細川隆雄


 2007年5月、アンカレッジでIWC総会が開催されたが、案の定、商業捕鯨再開に向けての前進はなかった。むしろ欧米諸国を中心とする反捕鯨国の巻き返しによって、商業捕鯨への道のりは遠くなった。一見、捕鯨問題はマイナーな問題であるようにも見える。捕鯨で生計を立てている人も多くはない。鯨を食べる人も多くはいない。反捕鯨を叫ぶ欧米諸国の意向に反対してまで、捕鯨問題にこだわる必要があるのかという日本人の意見も少なくはない。


 だが商業捕鯨禁止にいたる経緯を見る限り、日本人、日本国は捕鯨問題を小さな問題として軽く見るべきではない。1982年のIWC総会でアメリカ提案による商業捕鯨モラトリアムの決議が行われたわけだが、決議にいたるプロセスは奇奇怪怪であり、その後のアメリカを中心とする欧米諸国の言動は一方主義的であり高圧的である。そのプロセスは、日本にとって極めて理不尽であり、不公正であり、非科学的であり、陰謀的でもある。


 もっといえば、日本たたき、日本いじめ、日本に対する偏見・差別が根底にある。商業捕鯨再開をあきらめ、捕鯨問題で訪米諸国に譲歩することは、欧米諸国の屈辱的行為に日本が屈することになる。日本が日本であることを放棄するに等しい。正論にもとづいて主体的言動ができない隷属的国家になりさがる。たとえば、捕鯨をやめさせるために、欧米諸国は日本国旗を焼いたり、日本の工業製品を叩き壊したりした。欧米諸国にしてみれば、捕鯨は日本のシンボルなのだ。つまり捕鯨という人質をつかって、日本の国全体に攻撃をしかけているのだ。鯨資源を守るということなど二の次なのだ。


 現に、捕鯨問題は、鯨資源が持続的利用に耐えうるかどうかという資源論争から、鯨を食料資源として利用するのが妥当かどうか、必要かどうかという文化論争・倫理論争に変質した。このような争点の変質は日本側が望んだものではない。欧米は、資源論争ではもはや日本に勝てないと見て、勝ち目のある文化論争に意図的に争点を誘導したのだ。


 捕鯨問題で日本が屈するということは、「食料として鯨を食べるべきではない」という畜肉文化の欧米諸国の価値観の押し付けに、日本が隷属することを意味する。すなわちひとつの食文化が否定され、それを言われたままに受け入れたことを意味する。この意味で、捕鯨問題は対外関係において、日本が日本であるための試金石なのだ。マイナーな問題でもないのだ。


 1970年代に反捕鯨諸国は、鯨を環境保護のシンボルにまつりあげ、「鯨を守れずして、地球環境を守れようか」というスローガンを掲げた。これは表面的な見せ掛けのスローガンにすぎない。むしろ鯨資源を持続的に利用することこそが、地球環境を守ることになるのだ。大切なことは人間が自然との資源の持続的利用をどう実現していくかだ。食料資源を含めて天然資源の利用なくして、人間は生きていけない。資源をどのように適正利用するかとい資源利用論の視点の欠落した環境論ほど現実無視の空虚なものはない。


 鯨を含めて野生生物を持続的に利用することができるなら、人間と自然との係わり方においてこれほど地球環境に対してやさしい係わり方はない。なぜなら、野生動物を家畜化すればするほど、家畜を養うために、家畜の餌を確保するために、環境に過重な負担をかけることになるからである。反捕鯨勢力が作り出したスローガンは虚構であり、真の環境主義者なら、「鯨の持続的利用なくして、地球環境を守れようか」という思想に行き着くはずである。