縄文から続く鯨文化は日本が世界に誇るべき精神文化

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縄文から続く鯨文化は日本が世界に誇るべき精神文化

細川隆雄(愛媛大学農学部教授)


    九州から北海道まで、日本各地に、100以上の鯨塚(鯨の墓)がある。わたしはゼミ生とともに、内外の鯨塚・鯨文化探究の旅をつづけている。鯨文化とは、鯨の捕り方や加工保存の技術、食べ方や利用の仕方のみならず、鯨に関わる芸能や祭祀を意味する。鯨塚とは鯨をまつる石碑・供養碑や鯨の頭骨・顎骨等である。愛媛には南予を中心に確認さているもので、少なくとも18基の鯨塚がある。段畑と養殖鯛でよく知られる宇和島市遊子(ゆす)から、旅は始まった。高知の室戸、和歌山の太地、大分の臼杵、長崎の有川・生月、佐賀の呼子、山口の長門、島根の出雲、京都丹後の伊根、石川の真脇、新潟の佐渡などを旅した。そうして、東北・北海道の捕鯨の歴史と鯨文化の調査を無事に終了した。

いわゆる日本人はなぜに鯨塚をたて、祀ったのか。鯨の回遊ルートをたどってアラスカ等の国外にも調査を伸展させつつある。探究の時間的射程も伸びる。捕鯨と鯨文化のルーツは1万年以上も続いた縄文時代までさかのぼることができる。石川県能登の真脇遺跡縄文館の展示で、小型の鯨類であるイルカ類の大量の骨を確認した。石器が突き刺さった跡のあるイルカ肩甲骨も見ることができた。縄文人が積極的に鯨類を捕っていたことは間違いない。真脇にはイルカ伝説もある。イルカの肉を初穂として、海の神にささげ、感謝する儀式をおこなう、そうすると次の年も豊漁になるという伝説だ。

真脇遺跡では、環状木柱列も発掘された。その柱の一部であったであろう、なにかの造形がなされているミステリアスな彫刻柱を見ることもできた。これはイルカのトーテムポールでは? 今のところ環状木柱列・彫刻柱の用途は謎だが、アイヌの熊送りならぬ、縄文人のイルカ送りの祭祀場として見ることもできよう。イルカ伝説は縄文時代の心象風景ではないか。およそ伝説は、ある意味、長い歴史のなかで何らかの目的をもって構築された、文化的心象遺構と呼びうる。伝説には遠い遠い過去の文化がつまっている。

東釧路の縄文貝塚遺跡からは、放射状に配置された状態で、イルカの頭骨が出土した。これは何を意味するのか。なんらかの祭祀がおこなわれたことは間違いないであろう。この貝塚は祈り場か? 釧路に隣接する白糠(しらぬか)ではアイヌの伝統文化である鯨祭りに参加することができた。浜に打ち上がった鯨を村人みんなでありがたくいただいたあと、カムイに感謝の祈りをささげ、歌や踊りを奉納したという故事にもとづいて、アイヌ文化再生・振興のため18年前に、白糠のアイヌ文化保存会が復興したお祭りだ。

白糠アイヌ文化保存会会長の磯部恵津子さんに、白糠町役場ポコロモシリチセ(資料・文化施設)の囲炉裏端で話をうかがった。

「鯨塚、鯨まつりというような鯨文化に興味がありまして、日本全国各地の鯨塚・鯨文化を調査しております。その一環で、白糠にきました。鯨の肉をありがたく頂いて感謝しておまつりするという日本人の精神性のルーツは、どうも先住民としてのアイヌ民族にあるような気がするんです。日本人の源流はアイヌと重なる部分があるとおもいます。で、鯨祭りの経緯はどのようなものですか?」

「大きな鯨が浜に打ち上がって、村人は天の恵みだと大いに喜んで、即興的に歌ったり、踊ったりして、神様に感謝したのが、フンペ(鯨)祭りのルーツです」

「へえー」

「最初に鯨が上がったことを教えてくれたのはカラスなんです。カラスに感謝して、鯨の肉を与えるということもうたわれています。キツネにも分けました」

「打ち上がった時期はいつですか」

「江戸末期か明治の始めです。屯田兵が入ってくる前のことです」

「比較的あたらしいことなんですねえ」

「むかしの人は、鯨があがったら素早く発見して、ちゃんと処理して、上手に無駄なく利用したんです。自然の恵みをありがたくいただいたんです。一度に食べきれませんから、塩漬けにしたり、燻製にしたりして、蓄えて食べるんです。こういうふうに囲炉裏があって、炭をおこして、365日炭火をたやさないで、薪をたいているんです。こういう風に、たながあって、こういう風に屋根があいているんです。合掌づくりになっていて、煙がでるようにあいているんです、雨や雪が入ってこないように工夫されているんです。今のこの建物はむかしのように、あいていませんが。棚に鯨を置いておくと、煙にまみれて、自然に燻製になるんです」

「なるほど」囲炉裏の上をみながら私は納得した。

「あとは、土のなかに、塩漬けにして埋めるんです。そうすると、保存がきくんです」

「ここに魚を干していますが、鯨の肉も、こういう風に吊り下げるんですか」炉の上に吊り下げられた魚を指差してたずねた。

「そうです。こっちの魚は、ウグイとかアカバヤとかいって、川にあがるんですが、この魚はなかなか重宝です。この魚は、1本、2本、はずしてうどんとか味噌汁などに使うんです。魚に身もやわらくなって、食べやすくなります。いっぺんに食べきれないから、保存食ですねえ」

「すばらしいアイデアですねえ」

「食べることに日々を費やしたというか、野菜は、山にいって、山菜をとったりして、1年間、保存して食べるんです。次の春まで、乾燥したり、塩づけしたりして、食べます。魚もそのようにしたんです。年中、食べ物に困らないように工夫したんです。アイヌの集落というのは、10軒ぐらいの集落で、その中で、食べれない人がいないんです。1つのものをみんなで分け合って食べました。ものごいしたり、どろぼうしたりしませんでした。お腹いっぱいなら、悪いことを考えるようなことはないだろうということで、お腹をいっぱいにさせるというのは、おばあさんやおじいさんからのアイヌの教えですねえ」・・・




写真 鯨が打ち上がった浜でのフンペ踊り


自然の恵みへの感謝・畏敬の念から、100基以上の鯨塚をたてた日本人、今日的言葉でいえば、自然との共生をはかりながら海の幸山の幸を粗末にすることなくありがたくいただく、そのような日本人の精神性のルーツは、遠く縄文人あるいは先住民たるアイヌ人にあることは間違いない。太古からの驚くべき精神文化だ。

自然への感謝・畏敬の念から生まれた日本の鯨塚・鯨文化は、自然環境にやさしい生き方として、自然資源の開発・略奪型ではない循環型環境保全的持続的経済社会構築のための世界的モデルになることを、日本人は誇りをもって、もっと世界に情報発信してゆくべきであろう。牛を飼育するのに土地・水等、大量の諸資源を必要とする先進的牛肉文明?が地球環境にどれほどの負荷をかけてきたことか、いわゆる先住民や野生動物が住む豊穣の森林を牛のエサのために破壊してきたことか。地球の酸素供給源としてのアマゾンの森林破壊はいまなお進行している。森林破壊は地球温暖化の原因ともなる。海の幸山の幸をありがたくいただく、野生生物資源を持続的に適切に利用することこそが、未来の生き方の世界的モデルとなろう。