A級戦犯はいかにして作られたか
−連合国戦争犯罪委員会の議論の実態
北村 稔 立命館大学教授
【侵略戦争は戦争犯罪ではない】
イスラエルのハイファ大学で研究を続けるコチャ−ビ(Kochavi)教授の労作である”Prelude to Nuremberk”〈ニュールンベルクへの序曲〉(North Carifornia Univ.Press 1998)を読んで驚いた。一九四三年十月にロンドンで成立した連合国戦争犯罪委員会では、戦争終結の間際に至るまで、A級戦犯を裁く論理として国際軍事法廷で駆使されることになる「侵略戦争は戦争犯罪である」というテ−ゼが、国際法の常識に阻まれ成立していなかった。この事実は 中国や韓国とのあいだで靖国問題や太平洋戦争(大東亜戦争)を論じるための不可欠の知識である。目下、「共通の歴史認識」が日中間で模索されているが、中国側は事実認識の修正には応じても、日中戦争は日本による「侵略戦争であり戦争犯罪なのだ」というテ−ゼを修正することはあり得ない。日本を永遠に下風に立たせおくための不可欠の呪文だからである。因みに侵略戦争と訳されている英語のaggressive warのaggressiveは、「先に手を出す−仕掛ける」の意であり、戦争の内容に対し「侵略、征服」という判断を下した言葉ではない。
【パリ不戦条約の意味するもの】
一九二八年に調印された「パリ不戦条約」は、第二次大戦後の国際軍事法廷で、侵略戦争を戦争犯罪とみなす大きな根拠に据えられた。しかし連合国戦争犯罪委員会での事前の議論では、そのような解釈は与えられていなかった。連合国戦争犯罪委員会には三つの部会があり、第三部会が法解釈を担当していた。第三部会で「侵略戦争(aggresive war)は戦争犯罪(war crime)」だという命題を初めて提起したのは、チェコの亡命政権の法律顧問であり戦争犯罪委員会のチェコ代表であったエチェルであり(Ecer,Bohuslav)、一九四四年三月のことである。チェコでは一九四二年六月に、レジスタンスによる親衛隊長官暗殺への報復として数百人の村民が処刑される事件などが発生しており、ポーランドやチェコにおけるドイツ軍の占領を、これまでの戦争とはちがう戦争犯罪だと告発したのである。
エチェルは、「枢軸側(の戦争)は〈戦争の法と慣習〉の根底にある人道的配慮を踏みにじり、その戦争目的は、外国の国民を奴隷化し、これらの国民の文明を破壊し、さらには人種、政治姿勢、宗教、に基づき、これらの国民のかなりの部分を肉体的に絶滅することである。ゆえに(このような戦争)に責任をおう個人は裁判にかけられるべきだ」と提起した。しかし継続審議の結果、イギリスの法律専門家のアーノルド・マクネアーの意見が受け入れられた。マクネアーは「aggresive warは、いかに非難されるべきであろうとも、国際法において犯罪とはなりえない」という考えを提示し、「たとえ、戦争を国家政策の遂行手段とすることを放棄したパリ不戦条約といえども、この状況をかえるものではない。・・・・・パリ不戦条約は、法律上の規則により制度として正規化されていた戦争を廃止したのであり、国際法に基づいて国家により犯罪として処罰される行為の範囲が拡大されたのである」と述べた。そして、「個人が侵略戦争を追求するのは一つの犯罪であるが、それは戦争犯罪ではない」と結論した。この結果、一九四四年九月末の第三部会の多数派の意見は、「侵略戦争を準備し更に遂行する目的の為にのみ行われた人々の行為は、公布されている法律では、war crimeではない」であった。
【A級戦犯を生み出した論理】
しかしエチェルは〈いかなるaggressive warも war crimeなのか否かではなく、第二次大戦がcrimeなのか否かを決めてほしい〉と食い下がり、ヒトラーをはじめナチや枢軸の大物たちは死刑判決に十分な他の犯罪を犯していると述べ、この見解が採用されれば、戦争犯罪委員会が、枢軸側の犯罪的政策全般の遂行手段となったすべての事例を正しく解決する方法を得る上で有益である、と主張していた。エチェルの考えでは、国際法は、aggressive warを個人の責任を伴う犯罪行為として扱う方向に発展しつつあった。
このあと様々な議論が展開されたが、エチェルの見解は共有されず、四五年六月末から八月八日までのロンドン会議により、侵略戦争を平和に対する罪として裁く国際軍事法廷の方針が、アメリカ主張をいれる形でようやく確立された。この新展開は、ドイツの敗北で強制収容所でのナチのユダヤ人虐殺が世界中に知れわたり、ドイツの戦争遂行とナチのユダヤ人虐殺が表裏一体として認識されたからであった。かくして日本を裁くためにも、日本軍によるナチばりのホロコーストが必要であり、南京大虐殺が演出されたのである!