文明論の新しい視野

> コラム > 小林路義教授のアジア文明論


 総論1<『日本とアジア』平成16(2004)年9月号記載稿を再掲>


文明論の新しい視野


 文明論を語るとき,大陸文明と海洋文明については,誰でもそれ相応の話をすることができる.しかし,世界の諸文明は大陸文明と海洋文明だけに分けて理解できる訳ではない.「アジア太平洋時代の文明論的フォロー」を課題にしてきた私にとって,具体的に言えば,東南アジアと中央ユーラシアの文明をどのように考えたらよいのかということが,長い間の懸案事項であった.


一見東南アジアは海洋文明,中央ユーラシアは大陸文明の一分枝と考えられないことはないが,それはそう言えばそうも言えるという程度のことであって,それぞれの文明の本質に迫るものではない.東南アジアはまだしも,中央ユーラシアの文明をどのように考えたらよいかということは,我々日本人には非常に難しく,これを突破できないために,長いこと私は文明論を大々的に展開するのを躊躇していたのである.


大学院で比較文明論をもつようになったとき,三年で一応の完結をみるようにその計画を立てて,講義を進めてみた.そして講義を重ね乍ら,二年目の途中で,東南アジア文明の構造を終えて,丁度,中央ユーラシア諸文明の興亡を論じているとき,突如その突破口が開けたのである.


  この突破口によって,私は文明論の大きな見取図を遂に描くことができるようになった.と言っても,中央ユーラシアについては知識不足でまだまだ勉強を重ねなければ,その見取図を完成することはできないが,取り敢えず不動の突破口を開くことはできたので,今回初めて,そのポイントを公にしておきたいと思う.


 世界史を文明論的に大枠で捉えるならば,(1)モンゴル(帝国)以前と以後,(2)大航海時代以前と以後,に分けると全体が立体的に見えてくる.ここで私は(@)モンゴル以前,(A)モンゴル以後〜大航海時代まで,(B)大航海時代以後,とはしていないことに留意しておいて戴きたい.どういうことかと言うと,モンゴル帝国が(その継承各ハン国も含めて),消滅した後も,後継帝国(清やオスマン・トルコ,ロシア)は19世紀まで尚,拡大していたからであり,また,大航海時代以後すぐに,世界が海洋文明の時代に入った訳ではなく,海洋文明が優勢になったのは,たかだか19世紀以後だからである.


(1)(2)のような分け方をするというのは,別の言い方をすれば,モンゴル帝国は大陸文明の完成形であり,大航海時代は海洋文明の(世界史的意味での)まだ,始りに過ぎないということでもある.前者については,岡田英弘氏が『世界史の誕生』で力説したことは周知の通りである.


  唯ここで私が強調したいのは,モンゴル帝国が大陸文明の完成形だといっても,モンゴル文明そのものが大陸文明だという訳ではないということである.それは大航海時代以後,東南アジアが海洋文明の進展に大きな役割を果したとしても,東南アジア文明が海洋文明そのもの(つまり,海洋文明進展の起動力となったもの)ではないのと同様にである.と言うと,話が飛びすぎて何をいいたいのか,急には解りずらいかも知れない.


 問題は,中央ユーラシアのステップ(草原)地帯(ここでは幅広くとって,大興安嶺の東方も南西アジアのアラブ地域も含めることにする)に治乱興亡を繰返した遊牧民族の文明を,どのように捉えたらよいのかということである.遊牧民族の文明は,大陸文明の典型である中国文明やインド文明とは全く異なるのだから,大陸文明という訳にはいかない.


という訳で,ここで結論を先に言ってしまえば,遊牧民族の文明はネットワーク文明だということである.大陸文明と海洋文明の他に,ネットワーク文明という範疇を考えると,世界史の形成が立体的に把握できるというのが私の文明論の出発点になる.イスラーム文明も典型的なネットワーク文明であるが,それだからこそ,モンゴル帝国の時代に多くの遊牧民族はイスラーム化したのだと言ってよい(そして,イスラーム化しなかった遊牧民族が今日のモンゴル民族である.モンゴル帝国時代はトルコ民族とモンゴル民族のはっきりした区別はなくて,多くの遊牧民がモンゴルを名乗っていた.モンゴル帝国時代のモンゴルというのは,もともと単一の民族名ではない).


 草原地帯にモンゴル帝国が突然現れて,勝手に中国から南西アジア,東ヨーロッパの一部までを含む大帝国に膨張したという訳ではない.もともと中央ユーラシアには様々な帝国が興亡を繰返していたのである.匈奴,鮮卑(北魏,唐),柔然(じゅうぜん),突厥(テュルク帝国),契丹(遼),女真(金)などはどれもある特定の民族が作った帝国というのではなく,遊牧民族の連合体としての帝国の名前だという方が,歴史の現実に叶っているのである.遊牧民族の帝国というのは様々な種族の連合連携によるゆるやかな連合体帝国だったといってよい.中国(の華北)を統治したからといって,それは中国の王朝になったという訳ではなく,遊牧民族の帝国に中国も組込まれたということに過ぎない(中国の史書を見ていると,このことが解らなくなる).


これらの遊牧民族の帝国はゆるやかな連合体帝国だから,急に大きくなったり,急に消滅したりを繰返す訳で,それは遊牧民族の文明がネットワーク文明であることによる.草原地帯に何度も現れたこれらの連合体帝国の完成形としてモンゴル帝国が出現し,ユーラシア大陸を(西欧という辺境のみを除いて)一括りに纏め上げて,大陸文明を完成させるのである.ここで大事なことは,大陸文明がそれ自身で発展拡大して,大陸文明を完成させたのではなく,大陸文明を完成させたのは遊牧民族のネットワーク文明であったという点である.


 ここで,海洋文明と東南アジアの関係についても一言述べておきたい.東南アジア世界の特徴は先ず何よりも「文化交差地域」であり,海のずぅーと遠くからやってくる宗教と文化によって自己形成を図る世界である.そして,その内発的な国家形成は,詳しい説明は省くが,「ヌガラ」(港市国家)「ムアン」(駅市国家)「プラ」(平原国家)によって解き明すことができる.ここでは,国といっても,国としての領域がある訳でもなく,統治機構がある訳でもなく,また常に軍隊があるとも限らない.あるのは王朝・王室の「影響の及ぶ範囲」があるだけである.


つまり,それは伸縮自在であって,商業のネットワークによってその時々で大きくなったり,消滅したりする.ヌガラは勿論だが,ムアン,プラといえども,海域世界の商業ネットワークの変化によって,その盛衰がゆるやか乍ら,決ってきた.つまり,東南アジア世界はその東南アジア海域世界のネットワークと内陸部のネットワークによって成立ってきたし,海峡植民地国家もこの構造の上に乗って展開されたのである.従って,大航海時代以後の海洋文明の進展を促したのは,東南アジアのネットワーク文明であったということができる.


 以上を要するに,大陸文明は遊牧民族のネットワーク文明によって完成し,世界史の海洋文明への転換には,東南アジアのネットワーク文明が重要な意味をもったということである.これらが今日の世界の,そしてまた,「アジア太平洋時代」の文明論的解明とどう繋がるかは,またの機会に譲る.