開欄の辞(コラム開始のご挨拶)

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開欄の辞


  「開欄の辞」などというとちょっと大げさになるが,唯単純に「コラム開始のご挨拶」というほどの意味に過ぎない.本会のホームページに何かコラムを連載するように言われてから,かなりの時間になるが,それはきちんとした基本方針をよく考えた上で,コラムを開始したかったからである.どんな些細なことでも,それを公にするとなればそれ相応の対応と方針を欠かすことはできない.


  先ずコラム全体のタイトルであるが,私の研究・評論の総合テーマは「アジア太平洋時代の文明論的フォロー」なので,それに合わせると「小林路義教授のアジア太平洋文明論」としてもよいとは言え,アジア太平洋文明というのは言葉として極めて曖昧な概念であると同時に,現実としても,現段階では,そして将来においても,未成熟なものである.そこで落着きのよい「小林路義教授のアジア文明論」というタイトルにさせて戴くことにしたのだが,それはこの間まで鈴鹿国際大学の大学院で担当していた「比較文明論」を講義題目としては,カリキュラムの構成上「アジア文明論」として行っていたからである.


  アジア文明論というのは私の言葉ではなかったのだが,長年それで講義を担当している間に「それなりに落着きのよい言葉」であることは自分でも認めるようになった.従って,これまでの大学院での講義の続きのような積りで,このコラムを続けてみようと思ったのである.それならそれで何も言わないで,初めからそうすればいいではないかとお叱りを受けるかも知れないが,アジア太平洋時代という言葉をわざわざここで持出したのは,現今のアジアがアジアだけで自立している訳ではなく,アジアの問題は北米やオセアニアを抜きに語ることはできない,つまり太平洋という媒体を無視して語ることはできないからである.タイトルからのイメージのみに左右されず,アジアを考えるとき常に太平洋という媒体に注意を喚起しておきたいのである.


  さて,そういう事情でコラムのタイトルを「小林路義教授のアジア文明論」としたけれども,このウエブ上のコラムで大々的に文明論を展開する訳ではない.ウエブの性格から言って,それが適切だとも思われないし,読者にもまた迷惑だろうと思われる.従って,このコラムは上記の総合テーマに沿った私の研究や考察,経験から生れてくる話題や視点を気軽に紹介することになるのだが,そうなるとまた問題が生じてくる.


  一体著者は全体としてどういう構想のもとで,かくかくの考察や話題を取上げているのか読者には解らなくなる恐れがある.そこで本会主宰者の了解を得て,過去に本会が発行していたニューズレター『日本とアジア』に掲載した拙稿を二編,「総論1」「総論2」として再掲させて貰うことにした.これによってある程度,どのような構想の枠組があって,これから取上げる箇々の問題が問題となっているのか読者には理解して貰い易くなるのではないかと思ったのである.


  ウエブ上のコラムから言って,読みやすい適切な長さということを予めよく考えておかなければならない.これについてどういう方針で臨むべきかは随分悩んだのであるが,結論として,私は長さには一切考慮しないということにした.それはこのコラムを不特定多数のできるだけ多くの人に読んで貰うものではなく,あくまで私の言論に注目し関心をもって貰える人にのみ読んで貰おうと考えたからである.そのように照準を絞った方が,たとえささやかな試みであったとしても,密度の濃い内容の豊富なものにすることができるだろうと考えたのである.


  評論家というものは,様々な見解を密かに大量に蓄積しておき,求めに応じてその中からタイミングを考えて適宜公表するものであるが,求めがなかったりタイミングが合わなかったりして,言いそびれてしまうことは多々ある.従って,このようなコラムを持ちうるのは大変有難いことであり,このような提案を戴いた主宰者には心から感謝するとともに,今後は更に研鑽を積んでいかなければと思いを新たにしている.


  最後にもう一つだけ付け加えておきたい.私はエコノミストではないので,当然ながら経済問題については特に原稿の依頼もなく,事実そのような原稿を書いたことはない。しかし,だからと言って,何の見解もない訳ではない.訳ではないどころか,それなりに言いたいことはその時々に応じて色々あったし,今もある.大体が「アジア太平洋の時代」そのものが,アジア経済の高度成長から成立したのであり,それは共著などでは既にある程度は公表している.しかし,評論としてはこれまで特に依頼されることはなかった.従って,このコラムではアジア太平洋時代の経済についても,その時々の状況に応じてなにがしかの見解を述べていきたいと思っている.